.羽田談
拙寺は講員様に信者作りのお手伝いや家族やお知り合いを連れてきてくださいなどと言ったことはただもいっぺんもない。自分が信仰が浅いくせに人様を誘って連れてくるなと言ったことはある。
そもそも、ぞろぞろと群れてくる人が私は基本的に嫌いだ。
そういう信仰にはリーダーがいて後はお付き合い信仰のようなものだからだ。
其の人がいなくなれば後は烏合の衆で総崩れだ。
そういう人を大事に珍重してリスクは犯さない。
とりわけ特別あつかいするのは危険ですらある。
「特定の人物と横のつながりで来る信者は信用するな」は私の師が残してくれた教えだ。
だから以前、大勢自分のとりまきを連れて遠方から来た人がいたが出入りをやめていただいた。
そういうことはしまいに大きな過ちにつながる。
普通は寺社は喜ぶだろうと思っているだろうから、おおいに疑問に思っただろう。
おそらくその人は何故来るなというのか。最後まで理解できなかったと思う。
だが行者を目指す人においては別だ。
拙寺につれて来る必要はないが、その人自身の信仰は理解してもらえないとダメだと思う。
どこまでも自分だけが信じているというレベルでは前に進めない。
ここにあるように家族にすら信用の薄い人を他人様が信じてくれるわけがないからだ。
肝心なのは無理ではなく自然な理解だ。
新宗教の二世信者の様な歪んだものは作ってはならない。
だが得度の時、かたちばかりの保証人が必要なのだが、家族にそれさえ拒否されたような人もいる。
基本、そこがクリアできない人というのは行者になりたいなどと言っても大体先も知れている。
要するにその信仰以前にまず人間として信用されねばならない。
家族に人としてその考えや行動を信用されていないもののがその教えなど信じてもらえるわけがないのだ。
うちのお弟子さんではないが教会設立の段階まで来て、「教会たてたりしたら離婚する!」とまで言われた人もいるそうだ。
結局それでその人は断念した。
そんな時どうするかは本人次第だが、結局、信用が培えてこなかったのをにわかにどうすることもできないというのが真実だ。
この間も拙寺でそれに近いことがあり、職業行者コースは完全に断念していただいた方もいる。
私の師匠も「最初のあんたの信者はあんたの家族だ。」といわれた。実際そうだった。
うちは母も父もしまいに得度した。
准胝院さんの奥さんもいまでは僧階も持たれ寺院の運営になくてはならないパートナーだ。