金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

樹木の悟り。人の悟り。

もう最近桜などは葉によっては少し黄色くなってきました。季節は争えません。
「草木成仏」という言葉があります。これは日本独特のようです。
木や草も成仏するということでしょうが、私の師はそうではなく「木や草は元々成仏しているのだ。」といっていました。
彼らと云っては変ですが、草木は季節の巡りに従い、淡々と芽を吹き、葉を伸ばして花を咲かせ、実を結び、秋に散って枯れていく。そして春を待つのです。
「じゃあ木や草が如来であるのか」と云えばそこはそうではありません。
自然のままにあるという意味では草木ばかりか、鳥獣魚虫みなそうですね。
人間だけが違います。しかし、如来になりうるのは人天の二趣です。
代わりに人間にはずばぬけた智慧があります。豊かな感情や想像力があります。
これが「悟り」とともにあってこそはじめて「般若」の働きとなるのです。
ですから悪口じゃないけど、ヒマラヤの奥深く常に瞑想三昧に入って・・・というのも悟りが得られるのかもしれませんが、悟りは悟りでもそれでは草木の成仏と同じでしょう。
世間にあって、他人様の中にあって、世俗の中にあってが本来の人間の悟りというものではないでしょうか。
世の中にはずっと深山幽谷に籠って修行する人もいます。それは一般人にはできがたい尊いことではありますが、なかにはその方が社会で暮らすよりはるかに楽だからそうしているというような方もいます。

時として人間はヒマラヤの聖者のような存在ににあこがれますが、それはおおむね世俗に嫌々したときです。
上座部仏教はこちらでしょうね。出離ということが大事ですから。
しかし人間であるということは世俗であるということと一つです。
人の間と書くのが人間です。社会を捨てては人間本来の生き方はありません。このため上座部仏教でもサンガを形成しています。
一人、深山幽谷に籠るのは仏教から見れば独覚(縁覚)やバラモン教のリシ(大仙)の修行法です。
サンガはまぎれなく一種の社会です。
釈尊はサンガを乱すことを和合僧を破ることとして最も重い四波羅夷罪に規定しました。
しかし、より人間らしい人間として社会生活のままに悟る方法として生まれたのが大乗仏教です。
大乗仏教は本来、出家遁世ではありません。
ましてや四六中瞑想しているのでは社会生活はできません。
密教修法では「金剛起」と云う印言があります。これを結んで深禅定の楽を楽しんでいる諸仏にあえて起きて頂くのです。そうでないと涅槃の境地のままでは何もして頂けませんからね。
少なくとも、四六時中瞑想に入っているのがいいのだというような妄想は捨てましょう。社会的には引きこもりと変わりませんから。
瞑想は般若の活動をするため。
昼間活動するのに私たちが夜に眼るのと同じです。
寝てばかりでは駄目でしょう。