金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

明智光秀と石田光成

正月になるとテレビでは戦国時代のドラマをよくやりますね。
そのなかで良く出てくるのがこの二人。勿論主役として出てくるというよりは話の名脇役です。
明智光秀土岐氏という名門の末裔です。江戸時代になれば高家【旧足利幕府傘下の名家】に連なって良い家柄でした。一流の教養があり、なかなかの才人ですが基本的に単独行動の人です。何をしているのか信長にもよくわからず、実は義に篤い人物でありながら油断ならない人物に映っていたのかもしれません。よくならんで比較される豊臣秀吉はその点、何でもすぐ「上様」に報告する人でした。判り切ったことまで報告してきます。かくして彼は信長の絶大な信用を得ました。
そして光秀は疑心暗鬼が募りついに織田信長を裏切って「本能寺の変」で彼を討ち果たしますが、すぐに豊臣秀吉羽柴秀吉】に撃たれ、後の世に「光秀の三日天下」と言われるのです。
かたや石田光成はその秀吉に見出され寺小姓から側近中の側近にまで成りますが秀吉の死後、徳川家康と対峙して関ヶ原の合戦で敗れ、これもまた処刑されてしまいます。
彼はたまたま秀吉が鷹狩の途中休憩した寺でお茶を出す係りでした。
三杯のお茶を出しましたがそのお茶の湯加減の出し順が実に心憎いばかりの配慮だったといいます。それでスカウトされました。
そういうわけで彼もなかなか器量人ですが秀吉には忠義を尽くしても、他の武将を歯牙にもかけず配慮しない言動が徐々に諸将の恨みを買う形になってきました。
つまり彼には「太閤殿下」しか見えていなかったのですね。
特に朝鮮出兵の折には経済的な裏方の苦労を一手に引き受けながらも、出征した諸将からぬくぬくと内地でうまくやっていたとのみ想われ君側の奸としてのイメージができてしまったのです。
どちらも優れた人なのですがその失敗の原因はどこにあるのでしょう。勿論一つの要素に還元はできないでしょう。
でも彼らは優れた人ではあったが周囲の支持や良き味方を得られなかったということです。これは大きいことです。
明智光秀は信長を打った後、諸国の大名に檄を飛ばしますが誰も応ぜず、天王寺の合戦で敗れその後、名もなき農民の手に懸って死にます。
根まわしはしてあったはずなのにいざとなると誰も動きませんでした。
でも実際は誰とも膝を突き合わせての相談などはしていなかったのです。

石田光成は関ヶ原の合戦で毛利、島津はじめ諸国の大大名を味方につけることに成功しながらも、いざとなると彼らは軍を動かさず大敗を喫しました。小早川の離反もさりながら前日に味方の島津らから敵陣に夜討ちを掛けたらどうかという案が出たのを卑怯な策とにべもなく一蹴したためでした。
名目上の総大将は毛利でしたが光成は立場を誤解して遠慮も無く差配をし人の意見を一顧だにしなかったのが何と生意気なヤツと不評を買ったのです。元々の人望の無さも加わってついに大軍を擁しながら敗北の憂き目をみます。

彼らの失敗は優れた人でありながら自分の身のみを見て周りを見てこなかったのです。つまり少なくとも他人の縁を大事にしなかったということでしょう。明智光秀は事前にもっと謀議を他の大名と煮詰めるべきでした。
単独で立ち上がり、単独で敗北したのです。
石田光成もそうです。戦略の上で勝つことばかり考えて味方の和ということをついに考えなかった。
つまり彼らは一番肝心な点を忘れた中途半端なリーダーであったということです。特別に勝れていなくてもこのことを大切にすればリーダーにはなり得ますが、いくら優れていてもこの点を忘れればリーダーにはなれません。
現代の競争社会でもこういう自分本位の考え方に陥りがちですがやはり人を和が大事です。孤立していてはどんなに勝れていてもしまいには破れます。
少なくともリーダーとしては無理でしょう。
その点、秀吉は人タラシの名人と言われました。
構えて敵を作らないようにして大きくなっていった人です。
倒すにしてもいったんは和して後に考えました。
家康もそうです。秀吉亡き後に最も彼が力を入れたのは各地の諸大名との外交でした。
かくして人の心を捕まえ手こそ天下人となれたわけです。
人の和以上に大事なものはありません。
そのことを熟知している人こそが真の勝利者になるのです。