弟子の勧めもあって「沈黙」という映画を見ました。
遠藤周作さんが原作です。映画自体はマーティン・スコセッシというアメリカの監督さんの作品です。
要するに日本には根付かないということを言うのです。
でもクリスマスやバレンタインデーは定着しているし、最近ではハロウィンなどは盛んですよね。
日本人は宗教に対し、「お祭り」という理解の仕方をするのだと思う。
お説教や理屈からはいるんじゃないんですね。
祈りから入るのでもない。
祀るは原点的には「真釣る」で神と人を釣り合わすことなんだね。
そういう接触の仕方はしてきたわけです。
だからキリスト教自体は大した数の信者はいないけどクリスマスとかはやるわけです。
ダイレクトに神と接触をとるのが祀り。
神と遊ぶと言ってもいい。直接に触れて神を知る。
その点、キリスト教は理屈が多すぎるのでしょうね。
日本人には。
キリスト教もお祭りから入れば定着したかもね。
だからこそ殉教も苦にならない。
日本のキリスト教の歴史はむごいものですが、まあ、でも当時としてこれを禁教としたのは理がある。
それは紛れもない事実です。
そして、その規模とひどさは日本のキリシタン弾圧などの比ではないでしょう。
基本的に私の中にはそういうキリスト教のイメージがあります。
もちろん良いイメージもあるけど、基本的には征服者の宗教。
それがキリスト教。
だから当時の我が国のキリシタン禁制令を無条件に悪だとは言えない心がある。
むしろ、信者が焼き殺されても、水攻めにされてもますます信仰を固く持つというキリシタンの人たちには,「棄教」に対するとてつもない恐怖と罪悪感が一種の「強迫観念」としてあったと思います。
それを植え付けたのは当の宣教師たちでしょう。
映画の中にも「死んでいくキリシタンは神のために死ぬのではない。お前たちせいで死ぬのだ」と神父に役人が言い放ちますが、言いえて妙です。
そして、それが良いこととは私には思えない。宗教は人を開放するものでないといけないと思うからです。
殉教などには全く意味がないと思います。
殉教は本当は全然別なものを守ろうとしている。
真理の教えそのものはどんな教えであれ形のないもの、斬ることも焼くこともできないでしょう。
禅宗の話にこんなのがある。
老師が常に指一本を立てて人に真理を示したのを、寺の小僧が面白がりマネをして同じように指を立てて「わかるか?」と人にみせた。
この所業を聞いた老師は怒って小僧の指を切断したといいます。
小僧は泣きわめきましたが、その時に老師は指を又立てて小僧に見せたという。
斬っても斬れないもの。それが真理です。
私には、それがどうにもならないクズの憎むべき姿だと単純には思えないのです。
私の中にもきっと「キチジロー」はいますね。
大昔、バビロニアは強い国でいろいろな国を征服したけど、異民族の宗教は滅ぼさなかった。バビロンの都には異教の神殿も立ち並んでいて被征服民が信仰できる場があったそうです。
キリスト教にはそういうとこはないですね。
あるクリスチャンの方に真顔で「羽田さんは反キリストなんですか?」と聞かれたことがあります。
随分詰め寄って聞かれたと思ったらこれって後で意味を聞いたらおどろいた。
ほとんど神に敵対するサタンの側なのかという意味らしいね。
私は別に反キリストではないかもしれないけど「非キリスト」であることは確かですね。イエス様自体はさほどきらいじゃないけどね。
まあ、ありていに言えば逆にキリスト教の布教の過程でに弾圧されて消えていった様々な部族神たちの方が私にははるかに自分に近い存在に思えます。
こういう神々って皆、しまいには悪魔ということにされたそうだから、そういう意味では悪魔の側に立っているといえばそうですね。
あえて否定しません。
話を戻しますが、この映画のラストには感心しました、音楽はなくて鳥の鳴き声や虫の声。波や風や雷などの自然の声。これこそ日本でいう神の声なんでしょう。
きっとそういうつもりで監督は音源を使っている。
彼はキリシタン弾圧そのものより日本人というものをかたりたかったのかも。
日本の神観念では神は決して超自然ではなく自然即神ですから。