金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

幸福なんて本当は大事じゃないかも。

この間、ずっとお山に住んでいる老師のお話をしましたけど、それで大分目が開いた。私みたいなこんなバカでも少しは智恵がついた。
ありがたいですね。

「人間の幸せ」について尋ねたら「そんなものはないでしょ。」と言われてはっとしました。
そうなんですね。そりゃあそうだ。
尋ねた私が馬鹿でした。
こういう方相手に「哲学的命題」は意味ないんですね。
私たちはあまりに「幸せ」とか「不幸」とかそういう概念でくくって生きていると思う。
でも、そんなのどこにあるの?
家も何もバラックになったような戦乱の国の中でも笑っている子供もいる。一等国の高層ビルのマンションの中で、死にたい死にたいと毎日言って涙流している人もいる。
じゃあ幸福でも不幸でもいいから、ここにそいつを出してみなさいっていわれたらどうかなと思う。
「幸せ」って何?ウ~ンどうかなあ、考えてみてまあ、幸せと言えばそうかも・・・てなもんでしょ。
家族はいるし、仕事はあるし、体も特に悪いこともなく…まあ幸せかなあ。
そんなものですよね。考えてみて判断する。
でもそれ変ですね。
これに対して何を言うか!「人間の幸せ」とは何か考えないような奴はそもそもどうしょうもないバカなんだ。無教養の極みだといいたい方も多いでしょ。
でもそれがそもそも馬鹿なんだね。
「幸せ」ってだって「考えるもん」じゃないでしょう。
「感じるもの」だから。
幸福観があっても幸福感がない。その方が馬鹿だと思う。
美味しいとか、
うれしいとか、
楽しいとか、
ありがたいとか、
これらはすべて感じるもの。考えるものじゃないよね。
だけどそれをキープするためにいろいろな言葉でくくる。
そうすれば持ち歩きできるから。でもいつの間にか中身が無くなっているのかもしれません。
だからそこを老師は突かれた。
お前さんの言っている幸せって何だい?そもそも「幸せって何だろう」って、幸せがわからないのに聞く方もおかしい。包み紙だけ持ってきてこれなんだろうと聞くのと同じ。そんなの知りませんというのは実に禅者らしい答えです。

幸福になりたいあなた。あなたの欲しい幸福って何ですか?
それが思い描けないなら切符下さい。でも行先はわからないというのと一緒かもしれません。

感受性の上からは人間とかく不幸の方が敏感ですよね。
失業した。
病気になった。
離婚した。色々ある。

例えば子供が志望校に入れなかった。不幸だあ!もう駄目。最悪だと思う人もいるけど、それどころか子供が難病で長生きできないかもとか、もっといえば死んじゃったらどう?
志望校落ちた?そんなことはこうなればもう不幸のうちにはもういらないかもね。
だからそんなのはどこにもここから幸福も不幸も基準はないんですね。本当は。
若いうちから難病を抱えていた生きてればいいというとこから老師は出発した。明日をも知れない。
だから今日一日生きればそれでまず良し。
そういう人は強い。
動物の強さも全く一緒。迷いがない。今日も生きてましたでおしまい。
不幸だと幸福だとか悩まない。動物は概念でくくらないから強いンだね。

考えてみたら不幸だなあと思って死にたくなるなんてナンセンスだよね。考えなきゃそれでいいんだから。

前にも話したけど、人間があれやこれやと不都合に思うことを皆まとめてしまって作る不幸の団子ができない。
だって生きてりゃそれで充分なんですから。
こんな強いことないね。
今日もご飯が食べれてお空が青い。
まあ、それならとりあえず、それでいいじゃないんでしょうか。
あとは野となれ山となれ。バタバタ騒いでもどうもならん。
賢く生きないといけないと戦々恐々、四六時中あれこれ計算してきょろきょろしているのが一番愚か者かもね。