常に「でもあの人はどうの、この人がどうの」と言い続ける。
でも本当は言外に「・・・だけど、私はそうじゃない!」といいう本当の主張が隠れている。
詰るところ、いいわけの集積です。
そういう形の自己肯定といっていい。
でも、それを続けることは本当は大変です。
「そうじゃない自分」を維持しないといけない。
だから、それがひどくなると自分と違う人にマイナスのレッテルを張るようになる。その方が楽。
「あの人は田舎者」
「あの人は片親で育った」
「あの人は大学も出てない」
逆もある。自分がマイナスだと今度は恵まれていることに対するネガティブキャンペーン
「あいつは金持ちだからね」
「あいつの家は〇〇でははじめから将来が約束されている」
「あいつは東京モノ」
極めつけは「あいつは幸せだからわからないんだ!」
幸せさえ非難の対象です。(笑)
本当の差別というのはこういう構造です。
マイナスの自己肯定は間違っている。
人間て社会を形成する動物だからどこまでも社会の中で認められたいと思うとしまいにこういう病になる。
アリだの蜂だのは別にして、コミュニティを形成する生物でも高等な生き物程、同時にそうではない面がある。プレーリードッグでもサルでもライオンでもそうです。
あらゆる面で社会でみめられる必要なんかない。
手本に合わす必要なんかない。
我々はアリや蜂ではない。
例えば、プライベートでは人さまが理解できない絵を飾り、人さまが理解できない音楽を聴き、人さまが理解できない服装ですごしたっていいのです。
そんなの迷惑でも何でもない。
社会的自己とそうでない自己がバランスよくあること。それでこそ人は自由に生きられる。
そうでないとおかしいことになる。
そう気がついたらまずマイナスの自己肯定はやめるべきです。