最近の世間ではお葬式離れが多く、いわゆる直葬【葬式をしないで葬ること】などが著しく増えていると聞きます。
また、新宗教も例外では無く多くの信者離れがあるように聞きます。
これは詰まるところ、宗教というものがうまく今という時代のニーズにこたえられていない証なのではないかと思います。
宗教人は布教ということを考えるときにとかく時代に合うようにと考えるのですが、改めて考えるとこれがかえって新鮮なものを失わせているのかもしれません。
たとえば仏教でよく使う「慈悲」という言葉にしても、これは慈しむと悲しむという字からできている仏教独特の言葉です。
それを愛とか思いやりとか、「わかりやすい」ということばかりに主眼を措いて言いきってしまったのではそこに伝わらないものが出てくるのではないかと思うのです。
既知の言葉だけで説明できてしまうのでは仏教の特異性はなにも存在しないことになる。
それでは別に敢えて仏教でなくてはならないことはなにもない。
出番も必要ないことになる。
それがまた、知識的な人が聞くとより複雑な誤解になる。
たとえば慈悲の話を聞いて仏教はヒューマニズムなのだとかいうことになる。
もちろんヒューマニズムは悪いことではないけれど、仏教では人間だけではなく、ほかの生き物も全部が慈悲の対象に入るのです。
鳥でも動物でも虫でも入る。これら全部が慈悲の対象で人間だけではなく一切衆生と申しております。
ヒューマニズムはもともと西洋のキリスト教から出た神の最高の創造物である人間至上の思想ですからやはりそこは仏教とは微妙に違います。
すると今度は仏教では人間だけでなく自然も大事なのか?じゃあ仏教はエコロジーなのだということをいう人も出てくるかもしれない。
でもエコロジーは環境学から出た言葉でしょうから、それとはまた違うんですね。
仏教は仏教です。
ほんとうは置き換えずそのまま感じてもらうのがいいんですね。
わかってもらおうとして下手に置き換える。
それが誤解を生む。それでは仏教の特徴というものがなくなってしまう。
未知のものではなく既知の知識の置き換えになるので魅力がないんではないかしらと思いますね。
ほかの宗教の教えでもそうだろうと思いますが宗教には宗教独自の言葉があり、それを教えとして皆生きてきた歴史があるわけです。
だからまず仏教の短い言葉でも簡単にかえず、例をもって話をする。
天台諸宗では法華経というお経をとりわけ大事にしますが、法華経には七喩【しちゆ】というものがございます。
まあ,たとえ話ですね。
そういうたとえ話をしていってわかってもらうことになっているんです。いきなりこれは○○のことというわけにはいきません。
話をするうちに自然とニュアンスでわかってもらう。
だんだんわかってもらう。
そう言ったことを丁寧にしていくことがかえって良いのだと思います。
お仏像でも仏画でもそうです。そういうものに接して何かを受け取る。それは簡単には言葉にできない。
だけど何か荘厳な独特なものを感じる。
言葉でないならそういう接し方もある。
なんでも早いのがよいという世の中です、時代は令和に改まりこれからもますますそうでしょう。でも仏教においてはそうとは限らない、ジックリ興味を持ってもらう、そのためには早合点ではダメです。
「ああ。わかった。そういうことか。」ではなく、仏教にふれたらより深いものに興味を抱くようにしてもらう。そこが本当の意味で宗教に興味を持っていただく。仏教に親しんでもらうということにつながるのではないかなと思うんですね。
勿論、まず、そのためには我々僧侶がまず本気で勉強しなきゃダメですけど。