多くの宗教行事が無形文化財になる一方で頑としてそうはならないものもある。
それは秘密性が高い行事だ。
そんなに珍しいものでも無いが密教の灌頂なども同じく秘密だ。
園城寺の伝法灌頂などは勅会( 陛下の勅命で開く灌頂 )であったが当然いまだに公開はない。
これが無形文化財になった場合は国の宝だから公開しないといけない。
だがそれは無理なことだ。
密教はもとより、各大社の秘儀もそうだ。
アイヌのお祭りも元来はそういうものだ。
なぜ秘密なのか。聖なる場だからだ。
聖なる場とは一体何か。
それは神仏と神仏に向き合う役目を負う宗教者との交流の場だからだ。
こうした宗教文化はハッキリ言ってダイレクトに皆のものではない。
おしなべて皆のものにすれば意味はなくなる。
ある意味密教の伝法灌頂も一人前の密教僧を輩出して衆生利益するためのものだが、その場は決してダイレクトに衆生全てに直結するものではない。
どれも最終的には世間や国土を益するためのものだ。
だが直入はできない世界なのだ。
そんなのもう公開すればいいという人もいるが、それは文化の研究ではそうであっても。宗教本来の意味を損なうものであっては許されない。
何も常に文化研究を宗教の上に置かなくてはならない理由などは存在しない。
もしそこに関係ない第三者やテレビカメラなどが入るならそれは厳密には宗教行為としてもう成り立たない死せる真似事の世界なのだ。