上の大森先生のお話は面白い。
私が知っていたのは「オンコロコロ滑って転んでまた起きた」と言う薬師如来の話でまったく内容はいっしょ。
「アブラムシそこのけ」と言うのも聞いたことある。
大事なのはどの話が本当とかではなく、真言とはそういうものという教訓だ。
厳密には真言はまちがいではなくても天台衆と真言宗でも読み方は違う。
天台でも山門寺門でちがうものもある。
真言も諸派で違う。
アビラウンケンもアビラウンキャンと読む流派もある。
毘沙門天の真言もオンベイシラマナヤソワカ・オンバイシラマナヤソワカ。オンベイシラマダヤソワカ・オンベイシラマンダヤソワカと色々。
どれが本当かなんて実践上は問題はない。
天台読みは比較的原文に近いとか言う人もいるけどね。
昔あったお坊さん、サンスクリット勉強していてサンスクリットの原文でないと真言は効き目がないとか言っていた。
般若心経もサンスクリットで唱えると言う人でした。
でも私は師匠から上のおばあさんの話を聞いていたので「バカバカしい。この人、祈願とかしたことないんだろうな。」と思った。
祈祷やるなら絶対サンスクリット勉強したいないとダメとか言っていたが・・・。
祈願をして長いが 今もってこの説に興味はない。
密教の諸流を勉強して余計そう思った。
ただ、サンスクリットはサンスクリットで聖なる言葉なので偉大な霊力はあるに決まっている。もともとバラモン教時代からそういうものだ。
だから長い長いヴェーダをインドでは暗唱する行者もいる。
仏教という学問の上ではサンスクリットの研究は極めて重要でしょう。原典読むにも不可欠だしね。
だがそれは学問で実践レベルの話ではない。
弘法大師は真言は「一字に千の理がある」といわれた。
真言もサンスクリットの解釈で終わってはそれは真言の真意を得たとはいえない。
学者的な意味とりだけだ。そこに信仰がなければいかに言葉に精通しても宗教としての意味はない。
ましてや言葉と音は違う。
音には音の意味があると思う。
ただ言葉は音より深い。意識に上ったとき言葉になる。
少なくとも祈願では音より言葉が大事だ。