かなりの勉強好きなマジメな人で「サンスクリットまなびたいがいいですか?」と言うので「ご自由に」と言っておいた。
次に「八宗網要の講義」を受けたいというので「どうぞご随意に」と言った。
そしたら、今度はナーガアルジュナの「中論」勉強したいという。どうぞ。どうぞ。
いいも悪いも指導にならない。
「どうぞ」と言うのその人の自由だからそういうだけだ。
中論勉強しようが、簿記学ぼうが、皿回しだろうが、カッポレ習おうが勝手だ。
でも大体ものにならない。
いろんな勉強しているが「筋がない」のでぐちゃぐちゃになっている。
だから「あなたはどうしたいの?」というと得度したいという。
なぜ?
「修行して阿羅漢になりたいんです。」とか言うので驚く。
え、それ大乗じゃないよ。うちじゃ無理。
この人女性なので上座部いっても生まれ変わって男にならないと無理。
女性の阿羅漢はない。
中論、八宗網要以前の常識だ。
そこめざしてるのに「神道は男女差別的だ」とかいうのでまたビックリ。
それいうなら仏教の伝統はもっとだよ。
学ぶのはおおいに結構なことだが、でも「何」を学ぶべきかは一切訊いてこない。
自分の裁量だけで決めて、やっていいかどうか、いいかどうかの許可だけ求めてくる。
何かを学ぶのには筋道がいる。
そのために師がいる。
自由にやりたい方は師はいらない。と言うよりあっても邪魔だ。
こちらもうるさいことは言いたくないのが本音だ。
その辺がわかっていない人に言っても嫌がられたり口論になるのが関の山だ。
見てるといろんなこと並行してやる人は必ず挫折しますね。
自分の中では繋がっているんだろうね。
そこは邪魔されたくないのでしょうから、意を汲んで何にも言わない。
どうでもいい。
勝手によそで勉強してきて「ここが違うのは判らん!なぜじゃあ~」と言う。
それが昂じてしまいに相手がブチ切れたので辞めて頂いた人もいる。
そういう人はどんなに熱心でも弟子には加えたいと思わない。師は必要ないもの。
過去にも毎回毎回来て難しい仏教の話をする。別に相談しに来るわけではない。
毎度、毎度「へえ、そうですかあ」みたいに聞き流していたら
「私はこれだけ仏教勉強しているんです。なのに先生は私に弟子になってほしいとか思わないのですか?」と聞いてきた人もいる。
はなはだ図々しい。
口を出されたくないのに「なぜそこを言ってくれないのですか」とか言う人もいる。
問題外だ。
勘違いしてます。
中身を教えるのは教師。
学びの在り方まで教えるのが師匠。
そうした手順なく「○○を勉強したいのでそれ教えろ」と言われて教えることなどありえない。
オンデマンドの師匠はない。
自分で学び方を決めてる人には師匠はいらない。邪魔なだけだ。
私も人の邪魔にはなろうと思わないのでなにもいわず放って置く。
独覚道でご自由にどうぞ。一切お邪魔致しませんので。