霊障だという方のほとんどは疑似霊障です。
基本的に強い恐怖や瞋りなどの抑圧された思いが鬱積しています。
それが核となり心身の不調となってきます。わかりやすく言えば長期のストレスです。
原典には幼少期のマイナス体験がある人も少なくない。
特に親からの虐待やネグレクティブ(育児放棄)などはそのベースを作ります。
ですから霊の障りとはいってもほとんどは自己申告に終始するのであり、第三者には分かりません。
本当の霊障は第三者にもわかる物理現象や怪奇現象を伴います。
或いは本人が知らないことを正確に口走る等、体に変化が起きるなどなどです。
自己信仰に終始するものを霊障として考えるのは尚早です。
そうした不調がベースになっていろいろな霊的存在を引き寄せることはあります。
二次的霊障です。これも原因は霊ではない。心です。
他負えば強い恨みの念を抱いてしつこく呪的な行為など行うなら同調する霊が感応する可能性はあります。
勿論悪霊ですから自分にも害は至ります。相手より先にね。
そうやって両者共倒れになるのを喜ぶ悪霊もいます。
本当に呪うなら自分を呪わないと他者は呪えません。
自分の人生を台無しにして人にぶつけるんです。
幼少期、虐待体験のある方の霊障も実際は自分に自分がしている呪いといっていいのだと考えます。
世の中には呪いの専門家と言うような人もありますが、そういう人はもう自分の人生を犠牲にして切り売りしているようなものです。愚か者の行為です。
怖れるに足りません。
寄ってくる霊もそうそういうものです。
そういうのと付き合って幸せなどないです。
呪うことは暴力団を利用して、そののちもズット関係が切れず取り込まれて恐喝され骨までしゃぶられるのと同じようなものです。
ごくまれに人を「呪ってください」という人もいますが、他人さまのためなんかに自分の人生台なしにする気はゼロです。バッカじゃなかろうか。それに一応私も僧侶なんですけど・・・
疑似霊障の人に必要なのはお加持ではない。精神医療です。
速やかにそういう医療機関に行って今、自らに起きていることを相談すべきでしょう。
こうした場合に仏教的にできることはひとつだけです。
第三者の「仏性」を拝む行をしていくことです。
出会う人ごとにこの方のこころの奥には仏様があるのだと思いそれを拝むのです。
そうやって人を祝福していく。これを行としていく。
常不軽菩薩の行です。法華信仰の国柱会にも身をおいた岩手の文豪「宮沢賢治」はこの心で修行した人です。
具体的にはこころの中で「南無本覚法身本有の如来」ナムホンガクホッシンホンヌノニョライとお唱えしても、ただ「内在仏性。内在仏性」とお唱えしてもいいでしょう。
たとえ法華経を千回、万回唱えてもこの心無くしては意味はありません。