あるメンタリストと称する人は「生活保護者やホームレスより猫助けろ。命には軽重がある」という趣旨のことを言って大騒ぎになっている。
謝ったそうだが、この人は知能指数が極めて高いとのことだが・・・本当にそうだとすれば知能指数などは人物評価ではあてにならないと思う。
なぜならこの人は自分の縁と価値というものを完全に取り違えているからです。
誰にでも大事な人やモノはある。
隣の子供さんと自分の子供とでは人としての命は同じだ。
だが大事なのは自分の子供だろう。
大災害の折、ちりぢりになればまず心配し探すなら自分の子供に決まっている。
他人はどうでもいいのかと言われてもそうではないが・・・それは二の次で一番には来ないだろう。
むろんいうまでもなく、自分の子供も他人の子供も命の重さは同じだ。
そういう意味では行方不明だというお会いしたことすらない近所のご老人より昨日からいなくなった自分の家の犬が心配なのは人情である。
だが、近所の河で自分の犬とみしらぬご老人がアップアップしていたらまず人を助けるというのが常識だ。
あるいは何もできないにしてもは先に警察に通報すべきは人間のほうだ。
だれでもそうだろう。このメンタリストさんは違うのだろうか。
それはなぜか。人間社会に生きているものの義だからである。
好き嫌いではない。愛でもない。義である。
好き嫌いも愛も対象によって程度は違うだろう。
義はそう言う差別があってはならない世界だ。
たとえ個人的に嫌いな人物でも助けるのは義のゆえである。
でも、私もどこかの知らない方が死んだニュースより、正直、自分の家の犬や猫がが死ぬほうがこたえる。たとえ親類の死でも縁がなくあったことすらなければたぶん同じだろう。
それはなぜか。自分が動物でも人でも一緒に過ごしたほうはある意味自分そのものだからだ。それを仏教では「縁」という。
人一人一人の価値観は実は縁によってできている。
ホームレスの人でもよくみかける人、なんかしらしゃべったことのある人のほうが気にかかる。一般の社会人でも知らない方は気にかけようがない。
知らない不特定な人はひとまとめにしか認識できないからだ。縁がないからだ。
それも誰でも大概同じだと思う。
この発言の人の頭の中もたぶんそれがあったんだろう。猫は好きでよく接触する。だが、ホームレスや生活保護者のことはまるで知らないのだろう。知り合いにもそういう人はないと思う。だから汚くて好きじゃないというイメージだけなんだと思う。
が、そこがうまく表現できていない。というより彼の言うのは表現する価値もない自分の好悪の感情の吐露でしかない。
知能指数が極めて高い方なのに・・・ね。
端的に言うとバカだからだと思う。
極悪非道というほどのレベルではなくただのバカだ。
もちろん、バカというのは大変失礼だが、表現力や要を得た考えの伝達に劣っているといえば、果たして失礼にならないのだろうか。
そういわずバカといったほうが適切な理由は、なによりもそのまとまらないものをストレートに出してしまったからだと思う。知能指数が高い人であり、本人も自慢なのにである。
だからバカである。
きわめて知能が低いならバカとは言うのは失礼で不適切だ。それは障害だからだ。
私は別にこの人を非難するためにこの話をするわけではない。
仏教では自分を構成する周りの存在はすべて縁という。
ある意味それは自分自身でもあるから自分にとっては極めて大事である。
だがそこからもれていても価値自体には何も違いなどないのだ。
縁なき衆生も衆生なり。ゆえに菩薩はすべてを平等に接すべく自ら仏縁を作っていくのです。