宝篋印塔の供養をしたいのでご自分で書写し、自作の塔に祀り、舎利石などを入れてはどうかとのご質問がありましたが、形はそれでよくても開眼しないものは無意味だと考えます。
こういうことは指導が要ります。
そのための講員制度です。
したがって外部の方に電話やメールなどでそのような指導はできません。
開眼も外部の方の持ち込みはいたしません。仏像もそうです。およそのお寺に当たってください。
ましてや、こういうことは何より伝授のものです。
仏教は継続的に修行や指導のいるものだと認識しておりますから「やり方」だお教えしておしまいにはできないからです。
ただし、そこは寺院様により多少考えは違うかもしれません。
「開眼などしなくても心があるなら良いのでは?」という方がありますが、それは知りません。
「こころ」とはなんぞや?
私においては少なくとも正しくやろうと考える人だけが本当にしようとする心があるとしか考えていませんので。
そこを否定したらいままでやってきたことは全部無意味ですから。
そうは言っても、別に講員になって塔をお祀りしてほしいとかはないです。
無理にあえて勧める気もない。
講員は趣旨を聞いてなりたいという方だけがなればよい。
そのほかの方には無用のものです。
必要ありません。
宝凾印陀羅尼にただ親しみたいという理由なら、ただ日頃からよくよく読んで信仰していけばそれでいいでしょう。
それはそれで立派な信仰だと思います。
信仰の一つの在り方として何も不足はないでしょう。
これは准胝独部法にも同じことが言えます。
伝授を受けて印を結び、真言を唱えますが、そうした形式でなく日々、ただただ准胝真言を唱えていってもそれはそれで全然悪くありません。
よいことです。
ただそれでは独部法ではないというだけ。