私の師匠は密教する人で祈祷までやりこむ人は前世で一もう修行しているんだと言っていた。
そうでないと一代で化他行まではなかなかできないものだと。
たしかに密教を教えたら「これは前世で一回はしているかも?」という人はいる。
他のことはそうでもないけど難しい漢文を読み、印明を一回で憶えるなど・・・
多くの場合言っては失礼だが特別利発というような人でない。
だからこそそう思うのだろう。
私の母も得度し、弁天供、一千座を満じたが、一番最初に観音経教えた時に、「ああ、これ知っている」といった。
私同様別に物覚えが良いわけでもない人間だが、教えてしばらくして調子よくそらんじて唱えたところをみても前世、観音信仰していたようだと思わされた。
それでそのことは別段、人に語ったことはなかった。
母が亡くなって葬儀、法事に頼んだ方がまた、観音経をあげてくださった。
普通、天台の法事では良くあげるお経ではない。あげてはダメではないが
和尚に聞くと「いやいや、なんとなく、口をついてでてきましたので・・・」とのこと。
参列してくださったある人も観音経読んでいるときに何か光が広がるのを感じたという。
前世でも我が母はおそらく信仰してよほど観音経に馴染んでいたのだろうと勝手に思っている。
ほかにも熱烈な何かの信仰者に合うと「この人もそうかな…?」と思う。