最後の信仰のかたちは「安心」(仏教ではアンジンと読む)だと思う。
ここでいう「安心」とは単なる心の状態ではない。安楽な環境本位のことでもない。
信仰とはそこに尽きる。信心決定。
つまり手を合わせて本尊を念じれば、不安や恐怖がのぞかれ心の平和が訪れること。
あれやこれやの思慮を絶した状態。
たちまち本尊と私だけの世界が作れる境涯が作れるか否か。
難しいことはまずおいて信仰はただそこまでいければいいのではないかなと思う。
そして、そう言うことは在家も出家も関係ないと思う。
そこで阿弥陀か釈迦か、はたまた観音か、何の仏に帰依すべきかは顕教の話。密教ではすべての仏が普門の大日。
曼荼羅世界では区別はない。