大日如来ご自身が自己の内証を楽しむのを「自受法楽」という。
大日如来ならぬ我々行をする者にも似たようなそれはある。
自分の法を自分で楽しむ。三昧にあって楽しむ。
これは自行の人の目的でもある。だから自行の人は心行くまで時間をかけて修法していくのが理想だ。法を楽しめるなら自行はうまくいっている。
だが化他行となるとそうはいかない。便々と行の三昧を味わう暇があると限らない。
極めて短期間、一座のうちにほとけの加持力を施さなければならない。
そんな時に頼みにするのひとえに大悲の誓願である。
自己の三昧の力を頼んではいられない。
まだ三昧の境地でないとかは通用しない。
僅かの時間に三密加持を実現するのはひとえに大悲の誓願だ。
長く修法やらないといけない感はいつのまにか、仏を措いて自分頼みになっていないかふりかえることも大事だ。
もっとも化他行の人も祈願とは別に己の三昧を養う修法は自行の人以上に欠かせない大事だと思います。