「チャクラを開いて霊能開発とかよく聞くが密教ではどうなんですか?」という質問。
チャクラは輪という意味。
ヨーガの生理学では身体の正中線に沿ってそういう七箇所があり、霊的知性とつながっているという。
私の知る限りヨーガでもチャクラを霊能のために開くのではないと思う。
霊的知性を開く似のが目的で霊能開発は副次的だと聞いている。
ましてや超能力がない人は霊的知性が開かれていない人だとは言われていない。
ちなみに密教の五所加持や七所加持はチャクラの位置というが私は違うと思う。
密教にも気功があり学んだこともあるがそういう生理的部位について特段のことは言わないのが仏教系の気功の特徴だ。
密教でもヨーガの英知に近づくのと同様に、仏智に近ずく事が修行目的だから超能力開発メソッドなどは存在しない。
実は儀軌には色々奇跡的なことができるように書かれた部分はあるのだが、少なくとも今の密教の修行体系はそうではない。
ただし、副次的にそういう力に似たものが芽生える人は少数ながら出ることもある。
むかし叡山の行院で小林栄茂行院長にそれについてきいたところ、「行が進めばそういう不思議な感覚も当然ある。」という意味のお答えだった。
ただし超能力云々ということではなく、仏の世界に近づくなら、そのレベルに随い不思議はもちろんあるという意味だったと思う。
密教祈祷の原理である加持力は世にいう超能力とは全く異質のものだ。
霊験を現すにも知覚の上での変化をなんら要しない。
要するに必ずしも知覚的になにも「わかる」必要はないのだ。
もう亡くなられたが昭和に密教をやれば超能力者に馴れるといって人集めをし大教団を作った教祖があった。
誤解を恐れず申せば密教を昭和の御代にアピールするよう上手に商品化したわけだ。
売り込み文句は「超能力」だ。
なんと!念力で火をおこし護摩が焚けるという。
いまはもうやっていないから真偽のほどについては敢えて余計なコメントはすまい。
ちなみに「先生は念力護摩できますか」と言われたことがある。「勿論できません」と言下に答えたことはいうまでもない。
もしも、私がそんなことができたら、近所に不審火があればそのたび、疑われて叶わない。(笑)
本当にそういう超能力開発メソッドがあれば今でもその教団でやっていそうだが、今の教団はそうはいわないで専ら供養中心だそうだ。
教団に知った人はないので何故だか聞いたことはないが超能力者は教祖一代という話で落ち着いたのだろう。
まあ、それが無難だろう。
抑々、極端な超人願望がある人は少しおかしい人が少なくない。
人間である以上できることにそうそう変わりはないだろうと思う。
昔の忍者やオリンピック選手のように肉体的訓練で高く跳躍したり、水中である程度自由に活躍はできようが、鳥のように空を飛んだりできないし、水に魚のようにいつまでもいることは無理だ。
生理学的にそうできていないのだ。限界は明白。
超人になろうという願望のある人が、自分勝手に下手な行法をして知覚や認識がおかしくなり、極端な話が「超人」ならぬ「狂人」になってしまう危険もある。
気功でいう「入魔走火」もそれに近いものだ。
そういうものは望まぬが良い。