金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

少年からの質問

今日、お不動様の本を読んだという15歳の少年から質問が来ました。
彼はお不動様のお守りを持っているんだそうですけど、それを本尊にして拝んだりしていいかという質問でした。私は答えました。「全く問題ないでしょう。」
その質問に絡めてお守りより、お像を祀った方がいいのでは…という感じでしたが必要ないと申しました。「例えばあなたの家に毎週、有能な家庭教師が来るとしましょう。ご祈願というのはその人に勉強を見てもらうこと。でもお像を祀るのはその人におうちに住んでもらうのと一緒。その人は勉強だけでなく生活態度や言葉使いまで色々言ってくるかもね。でもそれを君が望むかどうかは別でしょう。だから祈願の目的を叶えたいというだけならお像まではいらないのです。」と申しました。
彼は「よくわかりました。」といいました。
しっかりした利発な少年です。
こういう子までが私のような者のつたない本を読んでくれると思うと、真実うれしいですね。


とかくお像を祀りたがる人がいます。
お像があるからご利益がよくなるわけじゃないのにね。
ご利益が欲しいならお参りすればいいだけでしょう。
自分が行かなくてもいいように祀るというのは横着です。
昔ですがわが師匠のお寺で十一面観音の尊像を出しました。
私は二体持っていますが総白檀の美しいお像で、当院の初期の本尊でした。
もう一体は私が地方寺院に行くときお祝いで頂いたものです。
信徒各位に授与されたのは全部で15体ほどでしたが、最後までもっていられたのは私含め23人で皆、行をする人のみでした。
多くは保ちきれずに帰してきたそうです。

それだけ難しいのです。

行を始めると色々な仏様に縁ができます。過去の因縁が開かれるのでいろいろな形でいろいろな仏に出会い、お祭りしようかと思うことは多いし、お祀りしないといけないとか、お祀りすればいいことがあるとかも思うのですが、師僧にたずねれば「必要ない」という一言だけでした。
「あちらから縁ができたので私が祀りたいというのとは少し違うんです。」といいわけすると「なら、なおのことやめておけ。あんたなんぞに祀ってもらいたがる仏像なんかは、どうせもう徳を失ってただの木くずになるようなものだ。そんな徳のない仏像祀ってどうするのだ!」とたしなめられました。
そうなんですね。
初行のものの徳を慕うのは捨てられて拾ってほしい流れ仏だけなんです。仏自体が徳を失う?変だと思うでしょう。もちろん仏自体は決して徳を失うものではないんですよ。
でもその仏像に込められた開眼した人や拝んできた人は打ち捨てられて残念無念なのです。そういうものの多くはもう福徳の因縁がないのです。そればかりか解消しきれない因縁を祀るものに結んでいく。
だから特に古仏はよほどでないと難しい。
かえって災いになることも少なくない。
私が古仏を修理し祀るのはそういう古人の信仰を拾い復活させてあげたいからです。
でもこれは一応、僧としてひととおりのことがでたうえでのことです。

この間、ある方の金属製のお不動様を預かって拝みました。
一般によくみる入手しやすいものでオリジナルではない。
でも新品で初めて拝むものはもう格段に開眼しやすいですね。
ましてや古いものを抜根しないで開眼してしまうと因縁の重ね塗りになってしまうんです。
前の因縁を置き去りにしてしまう。

そこは注意しないといけません。