金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

義理易


このところ2年位ですが拙寺で月一回「義理易」という学問を飯田吉宏先生に講義して頂いています。
「義理易」は占いじゃない哲学としての易。
「君子占わず」と言って君子になったら占わなくてもわかる。
易がもうすっかり体得されているということでしょうね。
でもなかなかそうはならないものらしい。

師匠の飯田先生の師匠は竹村亜希子先生で女流の易学者。
初め占っていたけどやめて義理易の師として活躍中。
でも私レベルでも義理易は難しいながら勉強することで占いの易にも大きな理解ができたのはうれしい。

易は君子の学問、君子じゃないとあたらないと思っていたので、私なんか易占いやっても当たるわけないと思っていたけど、君子というのもレベルがあって、まず一番初歩の君子は志を立てた人のことで、必ずしも人格が陶冶完成された人とは限らないらしい。じゃあ私もプチ君子くらいにはなれるかも・・・。

君子は本来は人のあり方の理想。もしくはそれを探求していく人。
簡単に言えば道を求める人です。
「君子なになにするなかれと言いますよ」と言っても「俺は君子じゃないから関係ないよ。」という人結構いますね。

此れ実に恥ずかしい物言いです。
聖人君子と一言で言うけど、君子と聖人は天地の開きがある。
仏教でいえば菩薩と言っても観音様から新しい在家修行者まであるのといっしょ。
「君子なんて自分には関係ない」といういい方は人としてのあるべき道を求めないというのといっしょだと思います。
人の道なんて全然興味ないというそういう人とは親しくしたくないですね。

伝教大師は「道心ある人を西には菩薩と言い、東には君子と称す」といわれていますから、大師の理想の中ではかなり菩薩と君子は近かった。
済世利民ということではいっしょ。
人としての在り方を求めることが道心。
違う点があるとすれば君子は利益すべきは人間が対象ですが、菩薩は生き物全部が対象ということかな。

こう考えると伝教大師という方は宗教の枠を超えて衆生利益を考えることができる人だったんですね。改めて素晴らしいと思います。
「義理易」に興味ある人はまず竹村先生の本を読んでみるのもいいと思います。