金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

クソ味噌一緒


最近は浄土真宗はじめ一部の宗派では「死は穢れではない。」という立場で「お清めの塩」も配らないという。
キリスト教ではもちろん塩は配らないから塩がでるでないそれ自体をどうこうはいわない。問題はその理由です。
真宗さんのお説は理由は死は穢れではないということだそうです。

気に入らないのは「穢れ」と「汚い」の概念が全く一緒なことである。
厳密には「穢れ」は「気涸れ」である。
エネルギーの値がゼロということ。
汚れは「よどむ」などの類語だろうから停滞して腐るようなのを言う。
違いを言うなら汚れは余計なものがくっついている。対するに何かがついているのではなく穢れは本来のエネルギーが枯れてしまっていること。
つまり本質の変容を言う。
最近の浄土真宗などではなんでも平等とかいう悪平等礼賛の現代思想に迎合するあまりか、ものの区別も失っているとしか思えない。死には死の作法があり、生には生の作法がある。
いっそ真宗さんが葬式、法事無用論でも言えば私も納得できる。

彼らは死者を汚れているというのは失礼だというのでしょう。
それはそうだと思います。
間違ってはいない。
だが穢れでないとは言えない。
穢れとは生きているのもと同じに扱ってはならないという考え。
扱いが違うのだということです。
その区別を差別などというのは幼稚な差別論でしかない。
こういうのを古来「くそも味噌も一緒」の考えという。こういう悪平等論は大嫌いです。

それでいて本山の出すお御影を祀るべきで、阿弥陀仏の木像は駄目だとかわけわからないクッダラナイ差別論を展開している。
新宗教か?
他の尊像ではダメとは一体どういう意味か?故人の往生が取り消しにでもなるのか?
黙って聞いていたが最近あまりに馬鹿々々しいのでいわせていただくことにした。
親鸞さまは仏具の購入までどうこういっちゃいないはずだ。

以前、先祖伝来から宗派の浄土真宗から真言宗に代わりたいがどうかときかれた。本人は真言宗が好き。良く霊能者が言うように宗旨替えして先祖が浮かばれないと大変だということで相談にこられた。
そもそもそれを天台宗系の僧侶に聞くのも変だろうとは思うが・・・

「そもそも真宗はもともと万人が成仏しているという教えなんだから、いまさら何をしたといっても阿弥陀の本願に漏れない。真言宗になったからと言って先祖が大日さんにやきもち焼いた阿弥陀さんに叱られて極楽から追い出されるわけでもない。真言宗にしたいなら安心して宗派変えたらよい。嘘だと思うなら私より真宗の和尚さんに訊きなさい。」といったおいた。

それにまず、僧侶でもない霊能者に宗派のことなどわかるはずもない。
宗教家でもないのに余計なこと抜かすなといいたい。

でもアホな僧侶は葬式の事で霊能者に訊きに行くものさえあるという。
実際、鬼門封じに霊能者だか占い師だかから「塩を撒け」というので撒いているがどのくらい撒けば大丈夫だろうか?という変な質問する阿闍梨さんもいたっけ。
私も言いたいですね。
「塩の量よりあんたの考えは大丈夫だろうか?」
何でそんなもん塩なんか撒かないで拝まへんの?シロウトか。