ある方から電話でお尋ね。
むかしからおうちはクリスチャン(カソリック)なんだそうです。
でも本人は供養の必要性をなにかで感じて20年間供養したけど最近家族がバラバラだという。
いいことがまったくない。
それはどうして?
で、どういう供養をしたか訊いたら・・・
クリスチャンの祭壇に供物上げたり、中国流に紙銭を焼いたり、高級車の写真供えたり・・お経とかはキリスト教なのでなしだったらしい。
なかなかタイや中国的ですがこの人はもちろん日本の方です。
供養にはよって立つ宗教的背景がある。
いささかオカルトチックな言い方だが背後霊団といってもいいし、所属の集合無意識というか、ホームグラウンドの働きがある。
それで成り立っている。
だからこの人はこの人なりの気持ちでしてるけど、キリスト教でも、仏教でもない。
多分、東南アジアの映像か何かでそういうの見たのでしょうね。
むこうでは道教のお寺に観音さんとかはよく祀るし、イエス・キリストやヒンズーの神様も祭るところさえある。
サティア・サイババのお寺もそうですね。一見すると何でもいいようにさえみえます。
・・・でもそれっておそらくめちゃくちゃじゃないんです。
そこには霊的共通了解が出来上がっていて機能している。
日本でも新宗教のなかには大体似たり寄ったりそんな感じのところもある。
でもそれみて「ああ、あんなでもいいんだ」で形だけまねて一人でやっているだけじゃ無理なんです。
信仰がないところに供養はないから。
結論として貴方は宗教がないのだからイノブタみたいな供養は成立しないし、先祖もクリスチャンだから仏教的にやってもたぶん受け取らない。
ただしキリスト教にはキリスト教のやり方があるからそれで仏教的供養が必要というわけでもない。
もしそれをいえばキリスト教国では死者がひとりもうかばれないことになる。だとすればそういう国はお化けだらけだがそんなことは考えられない。
そこでも仏教じゃなきゃダメとは思わない。でもあなたのしてることは供養にはならない。
私もそういう状況ではお供養を頼まれたとしてもできない。故人も施主も誰も仏教に帰依していないのに供養は成り立たない。
だからもう供養だの先祖のことなどほおっておいて自分の未来のことに現実的に努力しなさいと言っておきました。