連休で映画「犬部」みてきました。
獣医大学の学部にあった犬猫救済サークル。
本当にあったそうです。今も活動中。
彼らの尽力で生きた犬の解剖はなくなったとか・・・
その中で犬部のメンバーで、卒業後動物愛護センターで丁寧に処分される犬猫を見送っていた獣医が自らに殺処分の毒物を打って処分した犬猫のいるあの世へ行こうとするショックな場面もあります。
彼らは何も悪くない。人間の都合だけで殺される。いくら殺しても殺しても次々
はてしなく、際限なく送られてくる。
その重圧に耐えられない。
それはそうだろう。
自分たちの都合で厄介者になった犬猫を殺す。
その人間の都合は正義でもなんでもない。善悪を言えというならただの悪だ。
お互い人間だからなれ合いで「しかないこと」と認めているだけだ。
そこはいつもいつも社会性と公的にどうかいう言葉の前に前に黙らされるところだが、本当はいつまでも黙っていてはいけないのだと思う。
以前。医薬品、化粧品などの動物実験に反対の記事を書いたら、涙ながらの反論が来た。
その人はそういう仕事をされているらしい。
辛いけど人類の健康のためにしているという。そのとおりでしょう。
ご苦労様です。
私はそういう仕事をしている人を責めるつもりはない。
なぜなら、世の中のそういう意識が変わらない以上それは無意味だからだ。
例えば・・・最近は変わってきてるだろうが息子がゲイだと告白すれば一昔前は母親は半狂乱になって泣きくずれ、親父は激高して「おまえはおかしい!ただちに精神病院に行け」と厳命したとしても珍しいことでは無かったと思う。あるいは勘当だ。でていけというかも。
でも彼は当時の親は決して悪人ではない。悪しき親でもない。
当時のよくある普通の反応だったのだ。
だが、現代はそれでは差別的で無理解な対応だと言われるに違いない。
なぜか。
なぜなら同性愛に対する意識改革があったからだ。
このように意識改革をせずして人を責めることは無意味なのだ。
だから動物実験をしている人を責める気はさらさらない。
ただしノーはいわなきゃ意識は変わんない。言い続けないといけない。
従って個人は責めないが同時にその意見をいささかも変える気もない。
たとえ血の涙を絞って訴えられても、動物の命を脅かす生体実験はやめろという。
そこは少しも変わらない。