訶梨帝母(鬼子母神)供をしました。
訶梨帝母は前世はハーリティ(歓喜)という名の牛飼いの女性でした。
ある日。水を汲みに行った帰りに妊娠したまま、明るい性格の彼女は調子に乗って踊ったりしたため破水して流産してしまいます。その時、周囲の人々は遠巻きにしてだれ一人彼女を介抱しようとしませんでした。
通りかかった旅の阿羅漢だけが彼女を気遣ってくれました。彼女は深く感謝して阿羅漢に甕の水を供養しました。
阿羅漢は「せめて来世のあなたの願いが叶うよう」にと祝福されたのですが、苦しみながら死んでいく彼女が願ったのは、ただただ自分を置き去りにして、誰一人助けもせずに去っていった冷淡極まる世間の人に復讐することでした。
かくして恐ろしい鬼神に転生したハーリティは500人(一説に1,000人)の鬼子を生み、その子たちに人間の最愛の赤ん坊を食わせて養ったのです。
人々は大いに恐れ悲しみ、釈尊にすがりました。釈尊は一計を案じて鬼子母神最愛の一子ピンガラを鉄鉢の下に隠したと言います。
最愛の一子の姿が見えないのでハーリティは狂ったようになり下は地獄から天界まで走り回り、ついに彼女たち鬼神の王である毘沙門天のもとに至ります。
毘沙門天は彼女を釈尊のもとへと促し、釈尊からようやく最愛の一子を返してもらって彼女は初めて自らの悪行を深く恥じ、五戒を受持して子供を守る大善神となったというのがその由来とされます。
私はこの話を思う時、人は真に目覚める前に自らの悪行から学ぶこともあるのだということです。
それはその方の宿業かもしれませんが。それも目覚めれば転じて善化することができる。
逆に言えば「悪業を為したからこそ」ともいえる。
ただし、これは世間的には言えません。
そこは言ってはならないこと。宗教だけが言えることです。
でも世の中にもそういうことはあるのです。
社会復帰は過ちの程度に依るでしょう。
私も何人も人を殺害するなどひどい悪事をなしたものは厳しく罰すべきだという考えにいささかも異論はないです。
世間法と仏法は在り方が違います。
人の大切な子供をさらってわが子の餌食にするなどこれ以上の悪事はないものですね。
万死に値します。
ただ仏教はそんな悪事をしたものでも懺悔の心が起これば善導できるということを考える教えです。
まず前提は懺悔です。
これは世間法ではないですから、なるべく量刑は軽く、悪人は許せば善人になるなどいという俗にいう人権派弁護士のような甘ったるいことを言いたいわけではない。
罪は罪。罪は罰してしかるべき。
そうでないなら社会は成り立ちません。
同じように千人の聖者を殺して指で首飾りを作ったアングリマーラをお釈迦様は受け入れました。
この人は邪師にだまされたのです。
私はアングリマーラの話に麻原彰晃にそそのかされたオウムの幹部 井上嘉浩 受刑者を思います。
井上受刑者は当初、若き、まじめな求道者として出発しました。
人柄も明るく優しく教団でも人気があったという。
実に哀れで残念ではあるが、オウムの凶行で亡くなられた方を思えば、私は「許してあげてほしい。死刑はひどいではないか」とまで絶対に言えない。
言うべきと思わない。
なぜならそれはただの私の想いにすぎない。現実に人は殺されているからです。
世間法と出世間の法はおのずから違うからです。
ごちゃごちゃにしてはダメだと思う。
アングリマーラは人々の深い恨みから殺されましたがお釈迦様も仏弟子も助けには駆けつけた話はききません。
ハーリティは人でなく鬼神だからこそ生き残った。世間法が通じない存在だからです。トラやワニと同じです。
人の死体を喰らうジャッカルの化身だった荼吉尼天や大魔王だったという聖天も同じでしょう。彼らは人間社会の存在ではないから世間法で裁けません
死刑の是非は措くとして私はこと人間に措いては善に立ち返りながら死刑になる人がいても大いにその目覚めにおおいなる意味はあると思う。
次の生がある。
仏教では人は永遠の生命を旅するものだからです。