昔、私の師匠がある依頼を受けた。結構大きな問題だったらしい。
それで壇に上がって祈り始めたがどうもうまく届いていない。
そうしたらお告げが下りて「皆、お前には頼むが私には頼んでいない。お前がやれ。私は知らない。」といわれて「皆さんお参り必ずするように!そして御願いを述べることです。私はただの人間。みなさんのお願いをかなえてくださるのは尊天です。」といわれたことがある。
見ていると大きな祈願をする人ほど傲慢になってお参りをあまりしない。
お参りは基本である。それがない人は難しい。
だからありていにいえばお金持ちだからほかの人とは別待遇でというようなことをちらつかす人は私は敬遠する。
バンと金を出して「一番いいのでやっておいて」とかいう人。
そういうタイプが多いからだ。徳のある金満家は仏典では「長者」というがそれと真逆だ。
はじめから無理を言う。そういう人は何か勘ちがいしているのだと思う。
講員とか面倒だからはじめに大きいお金をはらうので非講員でやってほしいとかいう人もいたがお断りだ。
こういう人はじゃあ仕方なく講員になりたいといってもお断りだ。
そういう人は大概もう天尊が嫌っているから無駄なのだ。
コロナでいったん参拝者が来られなくなったのは仕方ないが所詮は自分の問題なのだ。
私が拝んでいてもお参りのない方は遠く遠く感じる。
勿論遠方なら仕方ないが、近所でも来ないものは来ない。
遠方の人でも頻繁に連絡を取り、お供物の多少にかかわらず挙げて欲しいという人は別だ。
来ても来なくてもやる祈願は同じと思っているんだろうが愚かなことだ。
しまいには天尊の側から縁を切られると思う。
天尊はお心はそうなったらどうすることもできない。
祈願の額面は関係ない。
そういう人ほど困ったときだけ吹っ飛んでくる。
私が多く祈ってもなかなか通らない人もあれば、日頃祈願もしないでお参りだけの人でも何か事あれば即座にお救いがある人というのはある。
それはそう言うことだと思う。