お釈迦様はすべては人の心の問題と考えた。
家族や人の在り方などには言及しているが政治的なことは口にはしていない。
多くの王侯貴族が信者にいたがそこは同じだ。政治的なことはあれこれと指示していない。
彼がしたのは法を説いたこととサンガの運営
釈尊はマハトマ・ガンジーのような社会運動は一切していない。
具体的に誰か特定の助命嘆願もしていない。
だから釈尊がダメなのでなく、だからこそ私には余計求道の先達として尊敬できる。
それはガンジーはガンジーで偉大かもしれないが、関心の上では釈尊に比して私には遠い存在だ。心底、社会運動が大事だと思うなら仏教は措いてそっちに行くだろう。
福祉に身を投じたマザーテレサも偉大だが、求道以上に私の福祉の関心比重はハッキリ言って重くはない。福祉の方が大事と思えば寺院なんかやっていない。
だが、ここを誰が一番えらいか、どっちが大事かなどと言うのはバカだけだ。
何を柱にするかの問題だからだ。
駆け出しのころ、ある女性の信徒さんが「私はここのお寺が好き。こういう飾らないお寺がいい。
他所のお寺はもっときれいで豪華だけど信者さんからいっぱいお金と取っているからなんだよね。そういうのは嫌い。
そんなお金があれば福祉に回すべきなのよ。先生もそう思うでしょう。」といっていたので、
「全然思わない。
言っておくがここが質素というよりボロなのは寺に実入りがないからです。
それだけです。
他に理由はない。
宗教法人でもないから税金も皆さま同様しっかり納めています。
別にそれを自慢するわけじゃない。それも、おかみからみて宗教法人に値しないからそうなのだろうとしか思っていません。
お金があるならこのボロ寺の修繕や整備に使います。
(来た当時は床は抜け落ち、何年も修理できない部屋もあった)
福祉はまあ、それなりに大事だけど、少なくとも今は念頭には浮かばないね。」とっておいた。
宗教は福祉や社会運動とは別です。少なくとも私はそういう人間です。
釈尊は心の王国をおさめることが一国をおさめることと同じに、いや、それよりもはるかに大事だったのだ。
最近は政治的なことにもお釈迦様を引き合いに出す人がいるが釈迦には社会評論も政治思想もない。そういう政治利用は少なくとも釈尊には関係ない。
では人間釈迦は政治も社会も無関心だったのか。
そう思ってよい。
その理由はそれらも含めて全てはわれわれの心の問題に起因するというのだ。
釈尊ご自身には社会の有りよう、個人の有りよう、国家の有りようというそういう区別はない。
釈迦の説いた仏道とはそういうものだと思う。