その中には知らずに人を悲しますことだってあるでしょう。
知らずに傷つけてしまうこともあるでしょうね。
釈尊だって人間としては家族や国を捨ててどうして出家したのかという父母の悲しい想いもよせられたでしょうし、しまいには仏弟子となった皇太子妃だったヤショーダラやその子ラーフラも当然そんな矛盾を感じていた時期もあると思います。
これは各宗祖師を知ればおなじことがよくわかるでしょう。
釈尊だってキリストだって皆人間です。どこかで何かしらの理由から釈迦やキリストだって憎まれたりあるいは恨まれたりもされていたでしょうね。
それは影響力の大きな人だから当然です。
たとえば解りやすい例が総理大臣はいつの世でも最も批判の対象です。
最も影響力のある人だからですね。そうなると余計憎まれたり愛されたり、けなされたり褒められたり・・・が当たり前。
良きにつけ悪しきにつけそうです。
誰だったかある仏教者の言葉に「偉い人なんていない。なつかしい人がいるだけだよ。」というのを聞いたことがあります。
そう、玉虫色の偉い人なんてどこにもいないのでしょうね。
だから実在の人物をそのままに完全な存在に神格化することはできない。
振り返ればそういう実際の釈尊の姿を知ることも大切です。
しかしそれはそれ、礼拝対象としては皆が納得できる絶対的に完全な形が求められてくるのではないでしょうか?
そこで法身仏という考え方が出てくる。
初期仏教には無かったことですね。
法身仏は見習うとかそういう存在ではなくあくまで理想として近づこうとする存在です。
ハッキリ言えば法身仏はこの世にいないからオーケーなんですね。
少なくとも天台の考え方ではそういう存在は娑婆にいない。
だから絶対の仏陀であるとか救い主だとかいうのは採用しないのです。
宗祖伝教大師でさえ天台の最終目的である究竟地にはいたっていないといわれているのです。
「本当に凄い人がいるんです。会ってみたら。」と言われても本人がブッダだとか救世主などと云っていると聞いた場合には近づきたいと思いません。
イカサマ師か思い上がりが頂点にまで来て精神を病んでいるかどっちかでしょう。
本当にすごい人は自分にも色々難や弱いところがあるくらいは判っていて当たり前なのです。
勿論実在の釈迦も時間的に遠い存在です。どんな方なのか直接知っている人はいない。仏伝や説話に彩られた存在ですから実際には法身仏と同じように我々の心には映ります。
同じ理由で各宗祖師もそうでしょう。
今はもう何百年も前にいないからこそ絶対に偉い人でいいのです。
だから他国侵逼の難がおこって蒙古が攻めて来るのだ。蒙古はそんな日本を懲らしめに来る存在とまでと言い放った過激な人です。
こういう風に違う。
でもそれでいいのでしょう。祖師たちと私たちの間にも大きな時代の隔たりがあります。誰も今の世に日蓮様の直弟子はいません。
時代の価値観に合わせて祖師像も語られる。
宗教には絶対的に尊敬する祖師と礼拝対象は必要です。
キリストだって最近トルコで発見された聖書には、本当は弟子が身代りになって磔になったとある。だからキリストは本当は復活じゃなく生きていたんだなんて新説もあるようですが、信徒にとっては事実がどうあれ十字架に着いたのは主イエスということなのでしょうし、そうでなくてはどうもなりません。
歴史的な事実がどうかは別として措いて、宗教的という場ではそうでなくてはならないと思います。