萬屋錦之助さん主演でヒットした往年のテレビ時代劇「子連れ狼」
その中で刺客「拝一刀」の口から「我ら、冥府魔道を行く親子」という言葉がたびたびでる。
このドラマは「輪廻」とか「六道」というような仏教語が時々重要な場面で語られるドラマだったと記憶している。
私も冗談のようにこの祈祷の道もまた「冥府魔道」だということがよくある。
半分冗談で半分は冗談ではない。
祈願の道は障害も多い。誘惑も多い。行者と言えども人であり、欲もあれば望みもある。
ひとつまちがえば魔の網絹にかかって人生を誤ったり、命すら失う。
そういう人を何人も見てきた。
真言密教の已達・三井英光大徳も言っておられるが行者はしばしば一生のうちでこれはというピンチに合うことがある。そんなときも拝む続けていかなければ行者のあるべき道ではない。
それもこれも禅家で言えば活きた公案のようなものかもしれない。
また、実際目には見えぬ様々な存在も相手にして生きていかねばならない。
人の霊もあれば人ならざる者もまた・・・
「釈尊は死後は知らない、そんなのはないといわれたんでしょ!」なんて馬鹿の一つ覚えのように言う人間など「あ、そう?」でおわりだ。
そんなの相手にしたって始まらない。私は理屈で仏教をしているわけではないので。
三井大徳の「加持祈祷の原理と実修」は東台を問わず密教祈祷をする人は是非読んでおきたい必読書だ。
三井先生もまた聖天をよく拝んだ方だ。
余談だが以前、三井先生からいただいた聖天像があるので納めましょうかという方があった。
だが、そんな密教の達人の拝んでおられた御像などはとてもではないが私ごときが畏れ多いのでお断りさせていただいたことがある。
人間、欲心を起こし過ぎたものを持つのはわが身の誤りのもととなりかねないからだ。
たとえ仏像であっても同じことだと思う。
またまことに人を敬う心には必ずそのような恐れが伴うべきものだと自戒している。